2008年03月26日
シリーズⅢ民話と伝説の舞台「夜泣き桜」
2008/3/28号ちいきしんぶん掲載
しだれ桜を寺から移したのは誰だ!?

古来より、しだれ桜の名所として知られる下滝町の慈眼寺(じげんじ)には、不思議な伝説が残っている。ところが、この話にはいくつかの説があり、主人公の殿様がそれぞれに異なる。しだれ桜を寺から城へ移し植えた殿様は、誰だったのか?
しだれ桜を寺から移したのは誰だ!?

古来より、しだれ桜の名所として知られる下滝町の慈眼寺(じげんじ)には、不思議な伝説が残っている。ところが、この話にはいくつかの説があり、主人公の殿様がそれぞれに異なる。しだれ桜を寺から城へ移し植えた殿様は、誰だったのか?
★今もひっそりと咲く伝説の少将桜
寺の周辺は、だいぶ様変わりをしていた。
過去に何度となく、この季節になると桜の取材に来ていたが、県道の前橋長瀞バイパスが完成してからは初めて訪ねた。それでも、荘厳な寺の佇まいは、以前と少しも変わってはいない。
寺の創建は遠く1200余年前、聖武天皇のころ。奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正によってなされたといわれている。境内には樹齢200年を超えるしだれ桜が約30本あり、県内屈指の桜の名所となっているが、その始まりは今から約650年前の南北朝時代の文和元年(1352)、足利尊氏の厳令により住職となった乗弘大徳(じょうこうだいとく)が植えた1本のしだれ桜からだったという。
寺の正式名は「華敷山補陀落院(けふさんふだらくいん)慈眼寺」。山号の華敷山も、一面に敷きつめられた桜の花びらの様子から名付けられたようである。
鐘楼のまわりを囲むように咲き誇る、大きなしだれ桜たち——。息をのむ美しさの中、境内の西の隅でひっそりと咲く小さなしだれ桜がある。これが世にいう「少将桜」である。またの名を「夜泣き桜」ともいう。
この桜には、いとも不思議な伝説がある。
★はらはらと涙をこぼす美しい女
うららかな春の日のこと。前橋城の殿様が、愛馬で遠乗りに出かけ、途中で慈眼寺に立ち寄った。境内には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き誇っていた。
「なんと見事な桜じゃ。まるで、薄紅色の衣をまとった美しい女が立っているようじゃ」と、殿様は飽くことなく花を愛でていた。
城へ帰っても、どうしてもしだれ桜のことが忘れられず、とうとう家来に「慈眼寺のしだれ桜を、城の庭に移せ!」と言いつけた。
殿様は花の咲く日を今日か明日かと心待ちにしていた。ところが年が明けて春になっても、しだれ桜は一輪も花を咲かせない。それどころか木に生気がなくなり、葉もしおれ、今にも枯れてしまそうだった。
ある夜のこと、殿様の夢の中に美しい女が現れ、はらはらと涙をこぼして泣いた。不思議に思った殿様がたずねると、女は、「わたくしは慈眼寺から移された、しだれ桜にございます。どうか、寺にもどらせてください」と、泣きながら告げた。
「無理やり連れてきたわしが悪かった。わかった、さっそくもどすことにしよう」
殿様がそう言うと、女はにっこり笑って頭を下げ、すうっと消えてしまった。
しだれ桜をもとの慈眼寺へもどすと、桜は見る見るうちに青々とした葉を広げて元気になり、よく年の春には、ふたたび美しい花を咲かせたという。
★しだれ桜を愛した殿様たち
さて、前橋城の殿様とは誰なのか? 一般的に伝わる民話では、「下馬将軍」の名で知られる4代目城主の酒井忠清(ただきよ)とされている。15歳で藩主となり、30歳で老中首座、42歳で大老まで務めた、前橋城主の中でも最も権勢をふるった人物である。
この忠清の官位「侍従少将」をとって、慈眼寺のしだれ桜のことを「少将桜」と呼ぶようになったということだ。ではなぜ、最高官位の「大老桜」とは呼ばれなかったのか? 年表によれば、忠清は前橋城に寛永14年(1637)から44年間も在任している。しだれ桜と出会ったときが、少将だったということなのか?
腑に落ちないまま慈眼寺を訪ねた。すると山門脇の説明板には、「少将桜」を愛した主人公の名はまったくの別人が記されていた。前橋城の8代目城主、酒井親本(ちかもと)とある。彼が城主になったのは享保5年(1720)のこと。8年後の同13年に侍従少将に官位しており、「酒井少将」といわれていた人物だ。
忠清説に疑問を抱いていただけに、思わぬ新説の発見に小躍りをしてしまった。改めて他の文献を集めてみると、なかには9代目城主の忠恭(ただすみ)という説まで出てきたが、圧倒的に親本説が多いことが分かった。親本は27歳でこの世を去った若き殿様だ。その、はかなさゆえか、断然に彼が少将桜の主人公のような気がしてきた。
★真実は300年の時の彼方へ
寺の山門前に立つ説明板に書かれていたのは、親本だった。では、なぜ忠清説が出たのか? その真相を確かめるべく、慈眼寺の53代目住職、吉井良弘さんに話を聞いた。すると住職は「あれは市の観光協会が立てたもので、それまで親本説は知らなかった」と言う。さらには、「寺の古文書には、酒井忠清が寺の近くまで来たことを示す記述が残されています。うちとしては、忠清説をとっています」と言って、歴代住職の年表を見せてくれた。それによると、18代から20代の住職が忠清の在任時代にあたることが分かった。
忠清は、しだれ桜を城の庭に移し植えるように家来に命じた。そして家来は、慈眼寺の住職に桜を献上するように申し入れたはずである。当時の住職が、そのときの様子を記した文書でも残していれば……。
300年以上も昔の出来事である。すべては伝説であり、語り継がれた民話だ。でも、少将桜なら事の真実を知っているはずである。「あなたを移し植えた殿様は誰ですか?」そう聞いてみたい。でも桜は、こう応えるだろう。「私は2代目、先代は老木となり、とっくの昔に枯死してしまいました」と。 (フリーライター/小暮 淳)
〈参考文献〉
「ふるさとの民話」(あかぎ出版)
「高崎のむかしばなし」(高崎市)
「高崎の名所と伝説」(田島武夫著)
「少将桜の伝説」(慈眼寺HP)
「まんが前橋の歴史」(前橋市)
「群馬県百科事典」(上毛新聞社) ほか
寺の周辺は、だいぶ様変わりをしていた。
過去に何度となく、この季節になると桜の取材に来ていたが、県道の前橋長瀞バイパスが完成してからは初めて訪ねた。それでも、荘厳な寺の佇まいは、以前と少しも変わってはいない。
寺の創建は遠く1200余年前、聖武天皇のころ。奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正によってなされたといわれている。境内には樹齢200年を超えるしだれ桜が約30本あり、県内屈指の桜の名所となっているが、その始まりは今から約650年前の南北朝時代の文和元年(1352)、足利尊氏の厳令により住職となった乗弘大徳(じょうこうだいとく)が植えた1本のしだれ桜からだったという。
寺の正式名は「華敷山補陀落院(けふさんふだらくいん)慈眼寺」。山号の華敷山も、一面に敷きつめられた桜の花びらの様子から名付けられたようである。
鐘楼のまわりを囲むように咲き誇る、大きなしだれ桜たち——。息をのむ美しさの中、境内の西の隅でひっそりと咲く小さなしだれ桜がある。これが世にいう「少将桜」である。またの名を「夜泣き桜」ともいう。
この桜には、いとも不思議な伝説がある。
★はらはらと涙をこぼす美しい女
うららかな春の日のこと。前橋城の殿様が、愛馬で遠乗りに出かけ、途中で慈眼寺に立ち寄った。境内には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き誇っていた。
「なんと見事な桜じゃ。まるで、薄紅色の衣をまとった美しい女が立っているようじゃ」と、殿様は飽くことなく花を愛でていた。
城へ帰っても、どうしてもしだれ桜のことが忘れられず、とうとう家来に「慈眼寺のしだれ桜を、城の庭に移せ!」と言いつけた。
殿様は花の咲く日を今日か明日かと心待ちにしていた。ところが年が明けて春になっても、しだれ桜は一輪も花を咲かせない。それどころか木に生気がなくなり、葉もしおれ、今にも枯れてしまそうだった。
ある夜のこと、殿様の夢の中に美しい女が現れ、はらはらと涙をこぼして泣いた。不思議に思った殿様がたずねると、女は、「わたくしは慈眼寺から移された、しだれ桜にございます。どうか、寺にもどらせてください」と、泣きながら告げた。
「無理やり連れてきたわしが悪かった。わかった、さっそくもどすことにしよう」
殿様がそう言うと、女はにっこり笑って頭を下げ、すうっと消えてしまった。
しだれ桜をもとの慈眼寺へもどすと、桜は見る見るうちに青々とした葉を広げて元気になり、よく年の春には、ふたたび美しい花を咲かせたという。
★しだれ桜を愛した殿様たち
さて、前橋城の殿様とは誰なのか? 一般的に伝わる民話では、「下馬将軍」の名で知られる4代目城主の酒井忠清(ただきよ)とされている。15歳で藩主となり、30歳で老中首座、42歳で大老まで務めた、前橋城主の中でも最も権勢をふるった人物である。
この忠清の官位「侍従少将」をとって、慈眼寺のしだれ桜のことを「少将桜」と呼ぶようになったということだ。ではなぜ、最高官位の「大老桜」とは呼ばれなかったのか? 年表によれば、忠清は前橋城に寛永14年(1637)から44年間も在任している。しだれ桜と出会ったときが、少将だったということなのか?
腑に落ちないまま慈眼寺を訪ねた。すると山門脇の説明板には、「少将桜」を愛した主人公の名はまったくの別人が記されていた。前橋城の8代目城主、酒井親本(ちかもと)とある。彼が城主になったのは享保5年(1720)のこと。8年後の同13年に侍従少将に官位しており、「酒井少将」といわれていた人物だ。
忠清説に疑問を抱いていただけに、思わぬ新説の発見に小躍りをしてしまった。改めて他の文献を集めてみると、なかには9代目城主の忠恭(ただすみ)という説まで出てきたが、圧倒的に親本説が多いことが分かった。親本は27歳でこの世を去った若き殿様だ。その、はかなさゆえか、断然に彼が少将桜の主人公のような気がしてきた。
★真実は300年の時の彼方へ
寺の山門前に立つ説明板に書かれていたのは、親本だった。では、なぜ忠清説が出たのか? その真相を確かめるべく、慈眼寺の53代目住職、吉井良弘さんに話を聞いた。すると住職は「あれは市の観光協会が立てたもので、それまで親本説は知らなかった」と言う。さらには、「寺の古文書には、酒井忠清が寺の近くまで来たことを示す記述が残されています。うちとしては、忠清説をとっています」と言って、歴代住職の年表を見せてくれた。それによると、18代から20代の住職が忠清の在任時代にあたることが分かった。
忠清は、しだれ桜を城の庭に移し植えるように家来に命じた。そして家来は、慈眼寺の住職に桜を献上するように申し入れたはずである。当時の住職が、そのときの様子を記した文書でも残していれば……。
300年以上も昔の出来事である。すべては伝説であり、語り継がれた民話だ。でも、少将桜なら事の真実を知っているはずである。「あなたを移し植えた殿様は誰ですか?」そう聞いてみたい。でも桜は、こう応えるだろう。「私は2代目、先代は老木となり、とっくの昔に枯死してしまいました」と。 (フリーライター/小暮 淳)
〈参考文献〉
Posted by ちいきしんぶん at 11:10
│2008年・特集記事

